吾輩は猫である 精彩片段:
九 - 13
迷亭もここにおいてとうてい済度(さいど)すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。主人は久し振りで迷亭を凹(へこ)ましたと思って大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢(とんちんかん)な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥(はる)かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目(めんぼく)を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑(けいべつ)して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
「ともかくもあした行くつもりかい」
「行くとも、九時までに来いと云うから、八時から出て行く」
「学校はどうする」
「休むさ。学校なんか」と擲(たた)きつけるように云ったのは壮(さかん)なものだった。
「えらい勢(いきおい)だね。休んでもいいのかい」
「いいとも僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣(きづかい)はない、大丈夫だ」と真直に白状してしまった。ずるい事もずるいが、単純なことも単純なものだ。
「君、行くのはいいが路を知ってるかい」
「知るものか。車に乗って行けば訳はないだろう」とぷんぷんしている。
「静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る」
「いくらでも恐れ入るがいい」
「ハハハ日本堤分署と云うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原(よしわら)だよ」
「何だ?」
「吉原だよ」